1938(昭和18)年から1952(昭和27)年まで、 旧国鉄の武蔵境変電所に隣接する官舎に住んでいた、 当時、武蔵境発電所は、 東洋一の規模と言われた、 他県の官舎から越してきた3歳だった僕は、 ウーンと発電機の振動音を、 20戸前後の官舎まで轟かせた、 巨大な白亜の変電屋を見て、 慄いた記憶がおぼろげにある、 変電屋はB29が落とす1トン爆弾に耐えるよう、 厚いコンクリート層で覆う工事が終えた直後だった、 しかし、変電所と官舎は、 近隣の軍需工場や、 大きな施設が、 完膚なきまでに爆撃されたにも拘わらず、 焼夷弾の1個さえ落とされなかった、 変電所を破壊したら電車が動かなくなり、 占領後に支障をきたす、 という米軍の判断だったらしい、 小学生時代、 電気と水の有り難さを知らずじまいで成長した、 水道で言えば、 庭や、物置小屋に至るまで、 7,8箇所に蛇口があったと思う、 庭の蛇口は池に引いていたので、 24時間出しっぱなしで、 小さな池は生意気に流水池同然だった、 巨大な変電器を冷やすための冷却水を、 深い井戸から大量に汲み上げており、 その余剰水が官舎に給水されるので、 使い放題なのである、 真夏、東京の街が渇水で、 給水車が出る光景は、 ここでは夢のまた夢だった、 もっと使い放題が電気で、 新潟にある国鉄の信濃川発電所から、 高圧線で常に送電されている変電所にとって、 20戸の官舎に回す電気の量は、 いくら使われようと、 九牛の一毛ですらなかったろう、 電気の消費量が多いという、 ニクロム線の電熱器をいくつも並べて煮炊きした、 風呂も電気風呂、 ストーブもだるまストーブを改造し、 電熱器をいくつもセットしたものだった、 さて、 これだけ水や、電気を使って、 水道料や、 電気代は払わなかったと思う、 使い放題でメーターもなかったはずだから、 もちろん、全国に10数万戸はあったはずの国鉄官舎で、 こんな野放図なことが許されたのは、 東洋一の大変電所の官舎であるここだけの話だろう、 父の退職で普通の家に住むようになって、 しばしば断水や、停電の憂き目にあい、 ようやく水と電気の大切さを知った、 旧国鉄変電所城下町で、 子供時代を送ったことで、 水と電気のことが新聞テレビのニュースになるたびに、 罪悪感にチクチク心が痛む。
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