新美南吉記念館の芝生の敷地に、 展望台風の台が設置されている。 南吉の生誕100年を記念して、 東海ラジオが制作する特番の収録を終え、 夕暮れを控えた時間に、 その台に上がったとき、 僕の視界に、 ごんぎつねの世界が広がった。 ごんぎつねのすみかがあるとされた権現山は、 小高い丘である。 約1キロ先に盛り上がる権現山の全容は、 すぐ目の前を通る道路越しに立つ、 2階建ての民家にそのあらかたを隠されて、 定かでない。 でも、 その民家は平屋の藁葺に変わり、 その脇の細い畑道を、 腰につけた魚籃を揺らしながら、 権現山の麓を洗って流れる矢勝川へ、 ウナギを捕りにいく兵十の後ろ姿が、 視界に浮かび上がりました。 ごんは兵十が捕ったウナギを逃し、 兵十にいたずらものとして憎まれます。 ごんは兵十の母親が亡くなり、 一人ぼっちになったことを知り、 おなじ境遇の自分と重ねて、 同情し、 後悔します。 償いに栗や、松茸を届けますが、 兵十はまさかごんのやったこととは思わず、 神様がくだされたのだと思い込みます。 ごんは自分の思いが伝わらないことに、 もどかしさを覚えながらも、 兵十に山の幸を届け続けます。 それはすでに償う意識を超え、 一方的に尽くす行為になっています。 こうして、 最後の場面になって、 兵十はあのいたずらぎつねが、 家に忍び込んだと誤解し、 火縄銃で撃つのです。 ごんが届けた栗に気づき、 「お前だったのか…」 と、すべてを悟ります。 倒れたごんは目をつぶったまま、うなずきます。 この物語を初めて読んだのは、 中学1年のときで、 学校の図書室で見つけた、 古びた南吉著の童話集の表題作でした。 当時、 知らない街の中学に進学した僕は、 いじめにあっていました。 昼休みになると、 食事もそこそこにすぐに、 図書室に走りました。 いじめを避ける意味もあったのです。 ごんが撃たれる場面では、 撃たなくてもいいじゃないか、 といじめを受けている自分と重ね、 兵十に反発したものです。 でも、 年を経て読み返すごとに、 ごんの気持ちが、 ひしひしと伝わってくるようになりました。 尽くしても尽くしても、 その思いが伝わらないこともある、 ということを撃たれることで象徴しているのです。 この世の中には、 そういう不条理なこともあるということです。 そうであっても、 伝わらなくても、 尽くすということは貴いのだ、 と南吉は伝えたかったのかもしれません。 ごんは今際の際に、 それが兵十に伝わったことを知り、 うなずいて満足したのでしょう。 小学生の教科書で学んだ人たちが、 今、このごんぎつねを読み返したら、 見返りを求めない行為の、 はっきり言えば、 愛の貴さを思い知らされ、 背中を押された気持ちになる、 のではないでしょうか。
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