太宰治と三鷹事件の狭間で三鷹の耳鼻科に通院していた僕が見たものは陽炎だったのだろうか

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志茂田景樹-カゲキ隊長のブログ No.363 2015年5月8日 掲載分
 

太宰治と三鷹事件の狭間で
三鷹の耳鼻科に通院していた
僕が見たものは陽炎だったのだろうか


太宰治の作品は殆ど読んでいる。
どの作品も面白い。
だからと言って、太宰に心酔したわけではない。
好きとか嫌いとかではなく、
そういう感情を揺り起こされない存在だった。
僕の視界で揺れている何だか得体のしれない人、
という印象がある。
僕は4歳のときに耳を悪くした。
当時は埼玉県入間郡の丘陵地帯にある国鉄官舎に住んでいた。
父は国鉄職員だった。
まだ戦中のことで、
列車で2駅3駅行っても、
病院らしい病院はなかった。
母に連れられていったのは、
よぼよぼの医師がやっていた耳鼻科医院だった。
治療が不完全だったのかもしれない。
僕は軽度の難聴になった。
父が転勤になり東京都下の(当時)小金井町の官舎へ引っ越した。
すぐに終戦を迎えた。
翌昭和21年、小学校に入学した。
小学3年のとき、
耳が悪化し耳だれが止まらず、
三鷹の耳鼻科医院に通院を始めた。
住所は小金井町だったが、
当時は東小金井駅がまだなかった頃で、
武蔵小金井駅に行くよりも、
武蔵境駅のほうが少し近かった。
学校から戻ると、
ランドセルを置き、
すぐに武蔵境駅へ急ぎ、
電車に乗り1駅先の三鷹駅で降りた。
南口から線路沿いの道を少し武蔵境駅よりに戻り、
左折するとその耳鼻科医院はあった。
左折しないで少し先に行くと、
屋根のない長い跨線橋が架かっていた。
その跨線橋は今でもある。
当時の三鷹駅南口は、
まっすぐ南へ伸びている商店街通りと、
その商店街通りを挟んで、
左右に細い道が伸びていた。
医院の帰り、僕は気の向くままに、
その3本の道をぶらついた。
駅から見て左手の細い道の角は、
午後からやっている飲み屋だった。
屋根はちゃんとあったが、
大きな屋台といった風情だった。
そこで2回、
印象の強い人が飲んでいるのを見た。
1回は着流し姿で両脇の男性と話をしていた。
座高が高く髪の毛が長く、
横顔の彫りが深かった。
今風に言えばオーラを放っていた。
2回めに見たときは、
開襟シャツ姿だった。
このときは1人で店の人と話をしていた。
その後、道でもう1回会っている。
医院を出て線路沿いの道に出たら、
駅の方からふらふらした歩き方で、
こっちへ歩いてきた。
当時、虚弱で体もクラスで小さかった僕には、
巨人に見えた。
すれ違うとき、
俯いたのは目と目を合わせるのが怖かったからだと思う。
それから何日経ったのか、
それとも1ヶ月は経っていたのか。
学校から戻ると、
母を含めて官舎のおばさんたちが、
何人も道に立って興奮した顔で話をしていた。
人喰い川(玉川上水)で誰かが心中して、
といったような話題だった。
すでに朝刊で大きく報道され、
ラジオでも放送されていたので、
官舎のおばさん方は、
その話で持ちきりだったのである。
家の中に入って朝刊を見ると、
あの人の顔写真が載っていた。
僕の耳鼻科医院通いは、
4年の秋まで続いた。
その年の夏、三鷹事件が起きた。
その翌日か、翌々日が通院日で、
三鷹駅で降りてみると、
南口側のホームが大きくえぐられていて、
まだ前部がぐしゃぐしゃになった電車が、
ホームに傾いた状態でそのまま放置されていた。
縄張りされた通路を通されて、
正規の改札口から大分離れた臨時改札口で外に出た。
玉川上水に架かる橋で陽炎が立ち上っていた。
線路沿いの道を歩いてくる太宰治の姿が浮かんだ。
それは陽炎のように揺れていた。
その年で通院は終わらせたが、
僕は今もって軽度の難聴のままである。

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