「戦争と文学・日本ペンクラブ平和委員会シンポジウム」
大型連休2日目で、東京堂書店のある神田すずらん通りは、そぞろ歩きをする人も含めて老若男女で混んでいました。
50年以上も前の中大時代はよく通った通りです。
店々の名で記憶があるのはわずか3つ4つ。卒業してからでも数回は歩いているのですが、その都度、浦島太郎状態になります。
東京堂書店だけはいつも同じ場所に同じ雰囲気で存在してホッとしますね。
学生時代の建物とは違いますが、当時は1階の天井がとても高くて大空間の書店という印象でした。
さて、今回のシンポジウムは会長の浅田次郎さんが基調講演を行った後、僕、冲方丁さん、松本侑子さんが各15分小講演を行いました。
僕は終戦の年の1945年、旧満州で満20歳で戦死した兄の思い出を通して戦争の無意味さ悲惨さを訴えさせていただきました。
兄は戦争が終わっても昭和27年までは行方不明者扱いでした。なぜかというと、兄が所属していた部隊は全滅したという噂があったものの客観的にそれを証明できる根拠がなくその部隊の全員が行方不明扱いにされたようです。
ところが、1952年になって部隊の2,3名の生き残りがシベリアの収容所から帰還して部隊のほぼ全滅のようすが明らかになり、兄に戦死公報がもたらされました。
戦死公報が役場から届いた日のことはよく覚えています。国鉄官舎住まいでしたが、その三畳間が兄の居室でした。観音開きの本箱があって、兄の蔵書が詰まっていました。
北原白秋や、ハイネの作品集が多かったのですが、戦後、小学生になってからの僕は学校から帰ると、兄の部屋に入り、その本箱の前に座って、ひとしきり兄の蔵書のあれこれを手に取り、そのページをめくることが習慣になっていました。
読めはしません。兄の息遣いを偲んでいたのです。
その日、いつものように兄の部屋に入ると、母が座り机の前に正座して息を殺して泣いておりました。
兄の座り机にはいつも陰膳が供えられていました。
学校に行っている間に役場から戦死公報が届いて母は気持ちの整理をしていたのでしょうね。
気丈な母の涙を僕が見たのは後にも先にもそのときの1回だけでした。
ところで、兄の部隊がほぼ全滅したのは8月23日の未明のことでした。
8月15日野終戦後のことです。
兄の部隊はポツダム宣言受諾のことを知っていたはずですが、その頃はもう関東軍の通信系統はめちゃくちゃで上級司令部から命令が入りません。
上級司令部から「武装解除されよ」との命令がない限り、日本軍は降伏できません。
降伏しない兄のいた部隊をソ連軍は攻撃してきましたから、仕方なく迎撃してほぼ全滅したということなのです。
戦争の愚かさがよく表れている戦闘だったようです。
後年、大岡昇平の「レイテ戦記」を読んで戦争の愚かさを、戦後間もなく発表された太宰治の「トカトントン」をそれ以前に読んで、復興の槌音を幻聴として聴いて悩む復員青年も含めて戦争が終わっての解放感の貴さを思い知りました。
第2部のシンポジウムでも終戦時5歳の目を通して感じた戦争の愚かしさを強調させていただきました。
こういうイベントはペンクラブを問わず、いろんな団体が機会を見つけて催してほしいと思いました。 |